「やってみる」と「やる」
2009年 10月 20日
「ルールを眺めつつ、とりあえずはコマを並べて動かしてみましょうか」とか
「重要そうなルールは口で説明しますので、とりあえずプレイしてみましょう」とか
これらは「やってみる」。
「ルールを読んで、序盤をソロプレイして、もう一度ルールを確認して、さて始めましょう」とか
「何度かのプレイを経てさらにプレイ」とか
これらは「やる」。
いくつか例文を作ってみた。
「やってみる」を何度かするうちに「やる」になっている、とか
他人とプレイする前に一人で「やってみる」を済ませておくようにする、とか
以前は「やる」な状態だったゲームだけれど、久しぶりなので今回は「やってみる」ですね、とか
色々なゲームを数回づつどんどん「やってみる」、とか
こんな感じ。
別に他人とプレイすることだけを前提条件している訳ではない。
対戦相手はいないけれど「やる」な位置づけになっているゲームもあると思う。
僕は基本的に「やる」を求めていて、「やってみる」はそのための手段だと考えることが多い。
だから、「やる」に至るであろう感触が薄いゲームには熱意がわかなかったりもする。
でも、最近結構気持ちが揺れている。
「やってみる」だけで終わっちゃうことがほとんど分かっているのに、それでも「やってみる」に臨むのも悪くないんじゃないかなぁ、とか。
それはそれで楽しいんじゃないか、得るものが大きいんじゃないか、とか。
やってみる、ではない。これは僕が勝手に人生の師匠だと考えている方のお言葉。
やる、または、やらない、である。
やってみる、なんてものは存在しない。
でも「やってみる」で得られることも結構あるように思える。
40歳を過ぎたら惑わなくなると思っていたのに。
「不惑」なんてウソだと思う。
または、僕が実はまだ40歳になっていないということだったりして(ずうずうしい)。