パズル
2009年 09月 24日
その向け先が僕であるか、僕以外の誰かであるかはあまり関係がない。
単純にゲームかパズルかというのではなく、割合という発想が必要になってくる。
これは「コスティキャンのゲーム論」にある一文である。
僕はこれに強く同意する。
ウォーゲームの題材(多くの場合戦争です)にも、パズルとして解決することが最良の手段であり、動的な要素のなかったものがあったんじゃないかと思う。
それを単独で切り出せばパズルになるけれど、切り取り方を変えることで「パズル的な思考も必要だったけれど、ゲーム的思考もふんだんにあった」という見せ方で面白くなっているウォーゲームは少なからずあるのだろう。
おそらく「パズル」という単語からくるゾワゾワ感は、ウォーゲームにパズル的思考が含まれていることそのものによるものではない。
題材に存在していないパズル的思考の存在が問題なんだと思う。
例として思いつくのは次のようなものたちである。
・戦闘力比をより上げるためにスタックを組み替える
・より高いコラムで射撃するために機関銃を別のユニットに移す
・戦闘後先進で包囲されないよう1ヘクスおきにユニットを並べて戦線を張る
・第2次移動で包囲されないよう戦線は二重に張るけど三重にはしない
このような戦術(テクニック、と呼ぶべきかもしれません)に関する思考は、ウォーゲームが題材にしている事象に存在していなかったり、あるいは題材と相反していたりするのかもしれない。
したがって好ましくないパズル的思考である、と。
「好ましくないパズル的思考」があるゲームを好まないという考え方の人がいらっしゃることを想像することは難しくない。
逆に、このようなパズル性を好む人もいるかもしれないし、好まないけれどそれを踏まえてそのゲームが好き、という人もいるかもしれない。
さらには、パズル的な思考にばかり注力してしまって、ウォーゲームの興を殺いでしまうこともできるかもしれない。
僕はパズル(クロスワードとかジグソーとか)をそれほど好まない。
しかし、ウォーゲームにおけるパズル的思考は結構好きだ。
たとえそれが題材と無関係だったり、相反していたりしたとしても、パズル的思考そのものに盛り上がってしまうこともあり、それを改めるつもりはない。
(だって、楽しいんだもの。。。)
けれど、そのような態度がもしかしたら対戦相手にとってつまらないゲームの要因になってしまうかも、という心配はしているつもり。
相手あってのウォーゲームなので、うまいこと空気を読めるオジサンでありたいとは思う。